津地方裁判所 昭和31年(ワ)29号 判決 1966年4月15日
原告
西口勝二・外六四名
原告等代理人
高木右門・外四名
被告
津市
代表者・市長
角永清
被告代理人
本庄修・外一名
主文
一、被告は原告安達まさへ、同田中道憲、同木村富、同片桐しめに対し各五〇万円、原告山尾宏、同山尾英子、同鈴木廸子、同紀平米吉、同紀平喜代、同岡シズに対し各一六六、六六六円その余の原告らに対し各二五万円およびこれらに対する昭和三一年三月八日からその支払のすむまで年五分の割合による金員を支払え。
二、訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第一 当事者双方の申立
原告らは主文と同旨の判決を求め、被告は「原告らの請求を棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求めた。
第二 原告らの主張≪省略≫
第三 被告の主張≪省略≫
第四 証 拠≪省略≫
理由
一昭和三〇年七月二八日津市中河原海岸において津市立橋北中学校が生徒に対し水泳訓練を実施中、原告ら主張のとおり三六名の女生徒が溺死したこと、原告らはそのうち三三名の溺死者の父母兄姉であり、その続柄は原告ら主張のとおりであること、以上の事実は当事者間に争がない。
二(右水泳訓練実施に至るまでの経緯)
<証拠>によれば、
公立中学校における水泳訓練はいわゆる特別教育活動に属し、このことは文部省の学習指導要領に記されている。右指導要領は、中学校の正規の教育活動を必須課目、選択課目、特別教育活動の三つに分け、正規の授業以外の修学旅行、水泳訓練等をこの特別教育活動に含ませ、正規の授業時間中に右のような特別教育活動が実施されれば、それは当然正課と同じ取り扱いを受けることに定めている。
ところで昭和三〇年七月一二日津市教育委員会教育長訴外西田重嗣は市立各中小学校長宛文書を以つて夏期水泳訓練について大要次のとおりの通牒を発した。
一、水泳訓練は正課の授業として実施し、全児童の全員参加を原則とすること、全教員が指導監督にあたること、目標を全児童が最低限水上で安全がたもてることに置くこと 二、水泳は児童の生命に関するから細心の注意を以つて監督し、特に人員の把握と標示竿からの逸脱防止に注意すること、教師が児童を分担指導し、教師一人につき児童三〇名を限度とすること 三、水泳場は最も安全な場所を選定すること、危険区域の標示を明確にすること 四、文部省発行の水泳指導の手引を参照すること。
これより先同年六月二七日津市教育長は同年六月三〇日までに夏期水泳訓練―実施計画を市教育委員会まで提出するよう各学校長宛指示して来ていたので橋北中学校においても学校長訴外沢野敏郎は運営委員会(校長の諮問機関)職員会議(校長の諮機関であると同時に校務全般についての議決機関)の議を経て同年六月三〇日その実施計画の概要を市教委に提出し、予算として便所、脱衣所、施設費一〇、七〇〇円標示竿と色旗五〇本、三、〇〇〇円、シャワー設備五箇所二、〇〇〇円以上一五、七〇〇円を計上請求した。
市教委は右橋北中学校の実施計画を検討し、訓練は午前中に行なうよう時間の変更を指導した外は予算要求についてはこれを減額して中学自体には予算として一、〇〇〇円を配布した。(同中学校用の便所と脱衣場は市教委の直営工事として実施、市教委の全体としての予算は二二校で二二万円)
(市教委へ報告された計画について水泳実施場所の変更を指導されたのは雲出小学校の一校のみで、同校は一見して危険と思われる海岸を水泳実施場所として報告したので阿漕浦の方へ変更を指導された。)
かくて橋北中学校は前記市教委の七月一二日付通牒の趣旨に副い水泳訓練を実施すべく更に協議を重ね、教務主任訴外落合敬一、体育主任訴外柴田哲雄が主となつて水泳実施細案を作成し、同年七月一五日の職員会議の承認を得てこれを全職員に配布したが、それによれば、訓練は津市中河原地先通称文化海岸において同年七月一八日から二八日までの十日間いずれも午前中に施行すること、参加生徒約六六〇名はこれを男女別にし、さらに水泳能力の有無によつて区別しホームルームを中心として組別に編成し、男子七組(内泳げない組三組)女子一〇組(内泳げない組九組)の全一七組とし、教諭一六名と、事務職員一名とに各一組を割り当て担当させ、生徒の指導監督にあたらせ、別に陸上勤務者として教諭二名を置きこれにより陸上からの監視、上陸会図、救護の任務を負わせ、訴外落合、同柴田の両名を生徒全般に対する水泳実技の指導者、校長訴外沢野を訴外若林組の補助者と定め、訴外柴田が日日の水泳場の設定その他訓練実施について必要な全般の指導を担当することとなつていた。
かくて橋北中学校は前記実施細案に基ずき同年七月一八日から夏期水泳訓練を開始するに至つたが参加生徒は泳げる者男子二三二名、女子五三名、泳げない者男子一〇三名女子二七二名で合計約六五〇名であつた。
以上の事実が認められ、他に右認定に反する証拠は存しない。
以上に認定した事実によれば本件水泳訓練は特別教育活動として正規の授業時間内に行われたものであり、また右訓練は市教委の指示に基ずき橋北中学校の立案した実施計画を市教委が審査し、その指導の下に実施されたものであることは明らかである。
三(特別教育活動として行う水泳訓練についての公立中学校教職員ないし地方教育委員会の注意義務について)
(一) 公立中学校の校長ないし教員は学校教育法により生徒を親権者等の法定監督義務者に代つて保護し監督する義務があることはいうまでもないが、右監督義務は中学校における教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係の範囲に限局されていると解するのが相当である。
そして本件水泳訓練は先に認定したとおり橋北中学校における特別教育活動として行われたものであり、これは正規の教育活動に含まれるのであるから、右水泳訓練を企画し、実施するに際しては生徒の親権者等に代つてこれを保護監督する任務を負う校長以下全教員は職務上当然に生徒の生命の安全については万全を期すべき注意義務が存することは多言を要しないであろう。
(二) つぎに地方教育委員会は従来市町村の権限に属していた教育行政を市町村の一般行政組織から独立して行なう教育行政機関であり、教育行政組織としての地方教育委員会は五人の教育委員の集合体としての狭義の教育委員会(合議制の行政機関)と教育長および事務局とによつて構成され、教育長は委員会の指導監督を受け、委員会の処理するすべての教育事務を司り、右教育事務につき委員会に助言推薦の権能を有し、且つ事務局を総括し、その職員を指揮監督する職責を有し、また事務局職員のうち指導主事は校長および教員に助言指導をなす権限を与えられているのである。(教委法第五二条の三、四、第四五条一、二項等)
ところで地方教育委員会の職務権限は同法第四九条に明定されているが、本件のような公立中学校の行なう特別数育活動としての水泳訓練についてはそれが生徒の生命の安全に関することがらであることからすれば地方教育行政の最高責任を負う教育委員会としては右水泳訓練を中学校当局の自主的行事として放任してよい道理はない筈であつて(学校教育法施行細則昭和二九年一一月八日津市教育委員会規則第四号第二三条には市教委への届出事項として運動会、学芸会、遠足見学等その他特殊な行事を規定し、認可事項としては宿泊を要する修学旅行――を規定していることは成立に争のない甲第二九号証の一により認められることからも明らかである。)本件水泳訓練が右規則第二三条所定の届出事項か認可事項かはかならずしも明らかではないが、そのいずれにもせよ、市教委のうち合議制の委員会を構成する各教育委員、教育長、事務局のうち主として教育事務に直接関与する指導主事、教育課長等は自ら発した正課として行なうようにとの指示に従い、その予算において行なわれた橋北中学の本件水泳訓練については右中学校の訓練計画に不備がないかどうか、その実施状況が生徒の生命に危険をもたらす虞れはないか等を審査視察し、且つ必要な予算措置を講じ、これらについて適切な指導助言を与え、以つて生徒の生命に万全を期すべき注意義務が存するものと考える。
よつて右見地に立つて本件事故につき、これらの者に前記注意義務のけたいがあつたかどうかを以下検討する。
四(本件事故発生の原因についての考察)
(一) 本件事故現場の地形、水泳訓練の実施状況
<証拠>を総合すれば、
本件事故現場である文化村海岸は以前から橋北中学校が水泳訓練を行つて来た海岸であり、津市を貫流する安濃川河口右岸から南方に拡がり東側の海と西側の堤防との間に満潮時にも数一〇米の砂浜を残す一帯の海岸で、全般的に遠浅の海で従来格別の事故もなく一般に水泳場に適する地とされて来たところであるが、河口特有の現象として以前から安濃川寄りの海底には一部に澪と呼ばれる深みがあり、昭和三〇年七月一八日の訓練開始時にも同海岸北端附近の海中に始まり同所海岸線に平行して南方二〇〇米余りのところに至り、それから大きく湾曲して東沖合に向う帯状の幅員約二〇米の澪が存し、右澪は干潮時にも水深約七〇センチの海水をたたえ、満潮時には水深が二米前後に達する。この澪に至るまでの海底は徐々に傾斜して澪筋に至つている。
そして橋北中学校の訓練場は事故前日までは安濃川右岸から約三〇〇米南方を北限とし、北側の南立誠小学校、南側の養正小学校の各訓練場の中間区域に南北の幅員約七〇米、海岸から約四〇米の奥行のところを標示竿(竹製)を以つて区切り、これを南北に二分し、訓練開始の当初の二日間は男子を北側にし、以後は男女の場所を取り換え、女子を北側においた。
事故当日は南立誠、養正両校が水泳訓練を実施しなかつたので別紙その二のとおり南北の幅員を一一〇米に広げ東西の奥行を四一米とし、男女両水泳場の間を一〇米とり、そのため女子水泳場の北端標示竿から澪までは最短距離にして約二〇米となつた。(前日までは約五〇米)
右水泳場の海底は別紙その二のとおり水深約四センチないし二七センチ(但し甲第二一号証の一実況見分調書には水深として右のとおりの記載があるがその添付図面には水深四センチとのみ記載があるから水深二七センチの場所があつたかどうかは必ずしも明らかではない。)の幅員二米ないし二七米のくぼ地によつてA州とB州に分かれ澪をへだててC州が存していた。
以上の事実が認められ、他に右認定に反する証拠はない。
(二) 事故発生直前における生徒の入水状況
<証拠>を総合すれば、
体育主任訴外柴田は水泳訓練最終日にあたる事故当日に生徒の水泳能力のテストをすることを計画し、当日学校から水泳場に出発する前にその打合わせを教職員間でなした後に生徒より先発して水泳場に至り、先に認定したとおり水泳場の区域を一一〇米に拡げ、標示竿は北端に一本、北端から五〇米のところに一本、一〇米おいて一本それから五〇米のところ男子水泳場南端に一本(いずれも東側境界線上)都合四本となし(前日までは約一五本立てていた。)右標示竿から少し内側に色旗を一〇米置きに約一〇本立てた。右標示竿が立てられた水深ははつきり分らないが、当時は七分満潮であり右標示竿を立てた時刻より約一〇分ないし二〇分経過して実際に生徒が入水したときは女子水泳場の標示竿附近の水深は女生徒の乳の辺(身長一米四九センチの女生徒梅原輝代の証人調書(乙第一二号証)によれば約一米一六センチ)であつた。
テストの方法は生徒を順次色旗に副つて泳がせ二本目まで泳げた生徒は二〇米と書いた距離札を男子水泳部員が生徒に渡すという方法に定められた。
当日平常どおり準備体操を終つた後、訴外柴田からテストの方法について話があり、テスト前の練習として一〇分間入水する旨を告げられた女生徒(約二〇〇名)は泳げない生徒が大半を占めていた関係から少しでもテストで泳げる者としての認定を受けようと気負いたち午前一〇時ごろ傘形に女子水泳場に散開して標示竿に向つて一斉に入水した。(男生徒も同様に入水した。)ところが入水後約四、五分にして本件事故が発生した。
以上の事実が認められ他に右認定をくつがえすに足りる証拠はない。
(三) 事故発生の状況
ところでその後における女生徒の溺れた状況については、幸いに救助された女生徒、および救助にあたつた男子水泳部員ないし教職員のそれぞれの体験が記載されている検察官に対する供述調書、公判廷における証人尋問調書(いずれも橋北中学校長訴外沢野敏郎ら三名が義務上過失致死罪として津地裁に起訴され、ついで名古屋高裁において審理された確定刑事事件記録)が本件において書証として提出されているから、以下これらの書証を検討する。
(イ) 女生徒の体験の検討
<証拠>によれば女生徒の体験は次のとおりであることが認められる。
1 水位について 東側境界線を南から北に向つて泳ぎ立とうとしたら背が立たず溺れた。その地点は北端標示竿附近ないしそれより少し沖と思うと述べている女生徒、訴外谷口丸子、同横山睦、同福森健子、同梅原輝代、同平田佳子。
背が立たなかつた地点は北端標示竿の手前で女子水泳場内と思うと述べている女生従訴外上本昌子、同乙部紀公子。
右地点は北端標示竿の内か外か、はつきり分らないと述べている女生徒訴外細川百合子。
女子水泳場内において水位の上昇を感じたと述べている女生徒、訴外竹内房子、同中村美代子、同沼田博子、同成子和代、同乙部紀公子、同柴田節子。
2 他の女生徒が溺れている地点について。
北端標示竿より北方ないし東側境界線の沖寄りで一五、六名の女生徒が浮いたり沈んだりしているのを見たと述べている女生徒訴外谷口丸子、同横山睦、同竹内房子、同沼田博子、同上本昌子、同平田佳子、同柴田節子。
北端標示竿及び東側境界線の内外一帯には一〇〇名位の女生徒が泳いでいたと述べている女生徒訴外竹内房子(甲第四二号証の二)
3 潮流について、南から北へ泳いだら意外に早く北端標示竿附近に到達したと述べている女生徒、訴外横山睦。北方には泳ぎ易く感じたと述べている女生徒、訴外上本昌子、足の裏がすうと動いて北へ流された。海底の砂がくづれて流されている様子であつた。足がさらわれるように感じた、と述べている女生徒、訴外竹内房子、同梅原輝代、同沼田博子、西南に向つて泳ごうとしたが北方に流されたと述べている女生徒、訴外細川百合子、同成子和代、同乙部紀公子。波は余りなかつたと述べている女生徒、訴外柴田節子。
ところでこれら女生徒の体験は生死の境に立たされた者の体験であり、本件事故の原因を検討するについて貴重な資料ではあるが、それだけに必ずしも当時の状況が正確に且つ客観的に述べられているかどうかは問題である。しかし、これらの各体験を通じてみれば、入水後大部分の女生徒が折からあつた相当強い北流に乗つて南から北方へ泳ぎの練習をなし、立とうとしたら背が立たず、溺れたという状況であつたと考えるのが相当であり、従つて溺れた地点は先に認定した水泳場の地形から判断すれば北端標示竿と澪筋との中間地帯ないし澪筋であつたと認められよう。(右中間地帯は澪筋に至るまで漸次海底が傾斜している地帯であるから水深は水泳場内に比べ漸次深くなつている筈である。)
このことは本件事故による溺死体は一体を除いて前記澪筋の海底で発見されていることは<証拠>により認められることに徴しても明らかであると考える。
この場合水泳場で水位の上昇を感じたとする者ないし足元が流れでさらわれるように感じたと述べている者が相当数いることは前記のとおりであり、これらの者の体験が若し真実であるとすれば女生徒は水泳場内で急激な水位の上昇ないし潮流の変化に会つて溺れ、その後に澪筋に流されたのではないかとの推論(この推論は本件事故を不可抗力なりとする見解の基礎をなすと言える。)も成立する余地が存するわけであるが、当裁判所は後記認定のとおり水位の上昇ないし潮流の変化を男子水泳場内で体験したと述べている男生徒がいないこと女生徒の中には北端標示竿の外側背の立たないところから水中に沈みながらも海中を歩いて自力で脱出して来た者がいたことなどの諸事実から判断すれば女子水泳場という限定された地域に限つて急に水位が上昇するということは考えられないから女子水泳場内で急激な水位の上昇を体験したと述べている者の供述部分は前記水泳場内のくぼ地にたまたま足をつけたため水位が深くなつたのを水位が上昇したものと思いこんだか、或は北端標示竿外での体験を水泳場内の体験と思い込んでいるかのどちらかであつて、これら供述が記されている<書証>の記載部分はたやすく信用できないし、また女子水泳場内で足元に異常流を感じたとする体験は後記認定の河口ないし澪筋においては海流は淡水と海水とで二重層を形成し、異常流現象が発生し易いという事実から考え恐らく真実の体験であつたと考えられるが、それも背の立つ地点(女子水泳場内)にいる女生徒を押し倒す程強い流れが足元を襲つたとは考えられず、いずれにしても女子水泳場内において急激に水位が上昇し、足元に強い潮流の変化が起り、そのため水泳場で多数の女生徒が溺れ、かくして溺れた女生徒が澪筋に流されたのであると推論することは合理的根拠に乏しいと考える。
(ロ) 男生徒の体験の検討
<証拠>によれは男生徒の体験は次のとおりであることが認められる。
1 女生徒を救助した地点は北端標示竿より北東約一五ないし二〇米の地点と述べている生徒、訴外村田勗、同前田功、北側境界線より外側であると述べている生徒、訴外那波進、同川崎勝次、北端標示竿の内側か外側か記憶なしと述べている生徒訴外黒石昇。
2 潮流について。全く気がつかなかつたと述べている者訴外村田勗。気ずいたと述べている者訴外前田功、当初は気づかなかつたが救助船が来たころは澪筋で急潮を感じたと述べている者訴外黒石昇。右と同様に相当救助した後に標示竿の北東沖を南え溺死体を探すため他の男生徒と共に手をつないで歩いたとき始めて急潮を感じたと述べている者、訴外川崎勝次。二回目の救助のとき潮流がきつかつた。さざ波が部分的に立つていた、と述べている者訴外那波進、これら男生徒の体験を要約すれば、潮流は澪筋において強く感じた。救助地点は北端標示竿の北側一帯であるということに帰着するわけであり、これは先に女生徒の体験により認定した事実と一致するわけである。
なお右男生徒の各体験中には水泳場内で急激な水位の上昇を感じたと述べている者は全くいない。
(ハ) 教職員の体験の検討
<証拠>によれば次の事実が認められる。
1 教職員多数は「北端標示竿の附近一帯で北流を感じた。(右北流は北へ行く程強く感じた。)溺れた女生徒は右標示竿の北方寄りにいた。」と述べている。(但し訴外若林淀子、同藤堂宣子は女子水泳場内で一人溺れていたと述べている。)
2 うねりないし水位の変化について。女子水泳場内で感じたと述べている者、訴外矢部博、同若林淀子、同藤堂宣子、同山本実。北端標示竿附近から深くなつたと述べている者訴外竹田綾子、同大森光晴。
ところで女子水泳場内でうねりないし水位の変化(上昇)を感じたとする者の体験を更に仔細に検討すると、訴外山本実は「女生徒は北端標示竿より北側で溺れていた。」と明言していること、また「これら女生徒の救助に向う途中一〇米位行つたところでへその深さだつたのが頸の辺まで来るようなうねりが来た。右うねりは一回ではなかつた。うねりが来た場所には女生徒が一〇名位はいた。女生徒一人を助けてからはうねりは来なかつた。」旨述べていることは前顕乙第三〇号証により認められるけれども右のようなうねりが来たことが真実であつたとしてもそのねうりが本件事故の直接原因とみることは困難である。すなわちこのうねりを訴外山本が経験する以前において既に女生徒が北端標示竿北側で溺れていたのであり、このうねりを同様に経験した筈の前記一〇名余の女生徒は右うねりによつて溺れたわけではないことは右乙第三〇号証の前記記載自体に徴し明らかである。(訴外若林淀子は膝位の深さのときに二〇センチ位の水位の上昇を伴ううねりを二回体験したと述べていることは前顕甲第一六、乙第三一号証によつて認められるが、このうねりが恐らくは訴外山本の体験したうねりであつたのであろうと思われる。)
訴外加藤佳澄は色旗附近から北へ向つて泳いで立つと背のびして乳位の深さになつたが、その地点は北端標示竿を確認していないから分らないと述べていることは前顕甲第一八号証により認められるが、(女生徒訴外細川百合子も同様な趣旨を述べていることは前記のとおり。)これが恐らく体験者の記憶の真相であろう。(前顕<証拠>によれば、本件事故発生直後教員訴外大森光晴は標示竿より外側で溺れている女生徒を助けるべく右標示竿を抜いてこれに女生徒をつかまらせて助けたことが認められるから、その後は標示竿はなかつたわけである。)
従つて女子水泳場内で水位の上昇を感じたとする教職員の体験は瞬間的なうねりのことは別として先に女生徒の体験の検討について述べたと同じ理由によりたやすく信用できないと考える。
(四) 事故発生の状況ないしその態様についての結論的判断
以上の各体験記録の検討からして肯認できる事故発生の地点、水位ないし潮流の状況。先に認定した事故発生直前の女生徒の入水並びに遊泳状況、と<証拠>により認められる次の事実すなわち事故発生後舟で救助に赴いた漁師達は溺死体の沈んでいた澪筋において漁師生活を通じて二、三度しか経験しない上り潮を経験し、普通なら棹で舟を停止させることができるのに流れが強いため、錨をおろして舟を停めたという事実を勘按して判断すれば入水後大部分の女生徒(約一〇〇名)が東側境界線近くまで進み、中には沖よりに出た者もあり、これらの者が殆んど折からの北流(澪筋に近ずくに従い速く、遠くなるに従い遅い。以下「異常流」という。)に乗つて北に向つて泳ぎ、そのうち約五、六〇名が入水後四、五分の後に東側境界線ないし北端標示竿の外側附近一帯(澪筋に近接した地帯)において澪筋における水位の変化、潮流の変化に会い身体の自由を失い溺れ、教職員らの救助も及ばず内三六名が溺死するに至つたものであると結論することができる。
甲第二〇号証(訴外加藤春雄の海岸の方に何かが押し迫つて来るような感じがしたとの供述部分)は女子水泳場に津波のような現象が起つたとみるには余りに漠然とした表現であつてたやすく信用できないし、他に右認定をくつがえすに足りる確証は存しない。
してみると本件事故の自然的要因としては澪筋の深みと澪筋に発生した異常流である。
と言えよう。
五(異常流についての考察)
(一) 澪と異常流の関係
<証拠>(刑事控訴審における鑑定人宇田道隆の証人調書)によれば、河口においては淡水が上に海水が下になりそのため密度の異なる二重層が形成されるので異常流が発生しやすいこと、そして河口ないし澪筋においてはその海底も潮流が変化しやすく、いわゆる魔の場所に変ずる可能性があることが認められ、他に右認定に反する証拠はない。
従つて澪筋が本件異常流発生の有力な原因となつていることは否定できないであろう。
若し本件異常流が澪に全く無関係に発生したとすれば右異常流は澪からの距離の遠、近を問わず橋北中学校水泳場一帯に及ぶ筈であるのに、先に認定したとおり男子水泳場には異常流の影響を体験したものが全くいないのであつてこれは男子水泳場は澪筋から離れているためその影響が全然なかつたか、ないしは微弱であつたためであると考えてよかろう。
(二) 成立に争のない甲第四七号証及び証人坂本市太郎の証言の検討
右各証拠によれば右甲第四七号証(伊勢湾西岸における沿岸流況と題する書面)は昭和三五年中に訴外坂本市太郎(三重県立大水産学部講師)が三重県知事の依頼により調査した結果を記載したものであり、右調査は津水域において同年八月中旬から九月上旬にかけて八日間、抵抗板、トランシツト追跡の方法により潮流の測定をなし、その結果を図表に現わすという方法でなされており、その調査の結論としては、津港から相川河口部の間は変流帯で接岸部は一般に弱流となつているが、津港北部及び相川河口より南部の接岸部は北流及び南流が卓越し、しかも岸に向つて流線が収斂するので噴流が瀕発する水域となつており、かかる状況は特に夏期において異常とは言えない。
本件事故は恐らくこの秒速五〇ないし六〇センチの夏期においてこの水域に瀕発する噴流の接岸がその原因であり、秒速一五ないし二〇センチの流速の下での事態とは推察し難いと述べている。
そして右各図表特にFig.九―三によれば本件文化村海岸南方の突堤の沖水深一〇米以上一五米までの間の地点から北流と南流が分かれて走り水深二米ないし五米の接岸部において秒速三〇ないし五〇センチの潮流が北方本件中河原海岸に向つていることが認められる。
右甲第四七号証を資料として訴外坂本の述べた見解は本件異常流の発生原因についての学者のした研究として貴重なものではあるが、本件事故発生当時の附近海岸の地形、水流と昭和三五年当時の地形水流が果して同じであるかどうか俄かに即断し難いところであり、従つて本件事故当時の沿岸流況が右調査結果と同一であつたかも俄かに即断できないし、また本件事故発生当時の女生徒の遊泳状況や澪の存在についての考察を度外視してなされた本件異常流についての前記推論は当裁判所としてはたやすく信用するわけにはいかない。
(三) 成立に争のない乙第一、二号証、第四〇号証(いわゆる南日論文)の検討
右各証拠によれば訴外南日俊夫は日本海洋学会誌一一巻四号に津市橋北中学校女生徒水死事件調査報告と題する論文を発表したが、それによれば、本件事故のあつた昭和三〇年七月二八日午前一〇時五分ごろは、その潮位から言えば三ないし四センチの北流が期待されるにすぎないが、同月二五、六日ごろから南方海上に台風一三号が発生し北上しつつあつて、その移動速度、吹送時間、発生水域における波高、週期などを天気図と対照して計算すると、本件事故当日午前一〇時ごろには右台風による週期一二・三秒波高一・六米のうねりが本州沿岸に到達し得るし、このうねりは津海岸では伊勢湾口の向きや等深線などからみて週期一二秒、波高二八センチのうねりとなり水深一ないし一・五米のところはそれが波長四〇米前後となり且つ秒速二〇センチの週期的流れを生ずる。一方このうねりがいわゆる沿岸流(ロングショアカレント)を生ずると秒速二〇ないし二八センチの流れとなり、これに正常な潮流の速さを加えると秒速二三ないし三二センチの流れとなり得るし、更に週期一二秒、秒速二〇センチの流れが重なると瞬間的には秒速五〇センチにも達する。そしてこの異常流により女生徒が澪に流され水死したものと考えると述べている。
そしてこの結論を出した資料は津測候所から送られた資料、昭和三〇年九月一〇日に自ら一日間観測した資料気象庁の潮干表、教職員の体験談等であつた。
以上の事実が認められる。
訴外南日は右各資料によつて前記のとおりの結論これを要約すれば、一三号台風によるうねりがロングショアカレント(うねりが砕けてそのエネルギーが汀近くで起す流れ)となりこれが本件異常流の発生原因であるとする結論を下しているわけである。
然しながらこのロングショアカレント説については、訴外宇田道隆、同坂本市太郎はこれを疑問視していることは前顕乙第三九号証および証人坂本市太郎の証言により認められ、右各証拠によればその疑問点は要するに、若しロングショアカレントが異常流の原因とすれば、それは津港海岸一帯に生すべきであるのに本件異常流が本件中河原海岸に、しかも特に女子水泳場附近に限つて生じたという特異現象を説明できないという点にあることが明らかである。そして当裁判所もまた右と同様の疑問を抱かざるを得ない。
また前顕乙第三九号証によれば訴外宇田道隆は南日論文は本件澪筋についての論議が不足しているとなし、訴外宇田としては寧ろ副振動現象ではないかと推論していることが認められるが、いずれにもせよ右南日論文は本件異常流について学者のした一つの推論の域を出ず、右論文が当時の異常流の原因および実態と本件事故との関連を正確に論証し得たものとは考えられない。
(五) 刑事控訴審判決の説示する蹴波説について
成立に争のない乙第二〇号証によれば前記刑事事件の控訴審判決は、本件異常流発生の原因として津海岸沖合を全速で北上した二隻の大型船舶によつて起きた二米近い蹴波が進行するにつれて大きなうねりと化し、このうりが接岸直前に海岸線に平行して北流する潮流を生じ当時本件水泳場にあつた弱い北流と合体してたちまち強い異常流を形成した旨を説示していることが認められ、右説示に副う資料としては当時二隻の大型船舶が津海岸沖を通過したことは成立に争のない乙第三八、第四一号証により認められるけれども、この船による蹴波が本件異常流の原因を形成するものであるかどうかについては前顕乙第三九号証によれば、訴外宇田道隆は異常流の原因をなしたという可能性の存することは否定しないが、七月二八日の事故当日以前においても大型船舶が津海岸沖を通過していた筈であり(津海岸沖は名古屋港えの通行路にあたつている。)、特に事故当日に通過した船の蹴波が本件異常流を惹起した原因であると断定するには、その当時の船の航行状況を再現し、その波動を測定してみることが必要であると述べていることが認められ、当裁判所も右訴外宇田の見解が正しいと考える。そしてこのの蹴波説の説くうねりの影響が若し多少なりと本件事故当時本件水泳場に及んでいたとしても(前記教員訴外山本実、同若林淀子の体験したうねりは或はこのうねりであつたのかも知れない。)このうねりが本件事故の直接原因とは認められないことは先に述べたとおりである。
従つていずれにせよ蹴波説は合理的裏付けに欠けるものというべく当裁判所としては採用できない。
(五) その他成立に争のない乙第三六、第三七号証によつて認められる海女が鳥羽沖附近の沖合で急な潮流を経験したという事実も右急潮が本件異常流と果して結びつくものかどうかについての適確な資料のない本件では本件異常流が右鳥羽沖の急潮に帰因するとは断定できないし、(事故当日の鳥羽、名古屋港、津土木出張所の検潮記録はいずれも異常がなかつたことは前顕乙第一号証により認められる。)また証人笹原範子の証言により認められる事故当日文化村海岸から一里位北の河芸町影重海岸において訴外笹原が監視していると長い白い線が一本海上を走り海岸に近づいて来たのを見たという事実も右白い線が前記蹴波によるうねりなのか、或は本件異常流と関係するのかどうかについては的確な資料のない本件においては(右笹原証人は右白い線が海岸に近ずいてからいかなる変化を生じたかについては何ら述べていない。)右事実も本件異常流の原因を説明し得るに足りる資料とはなし難いわけである。
(六) 本件異常流についての結論的判断
これを要するに本件異常流の発生原因、速度等についての科学的な解明は適確な資料のない本件においてはこれをなし得ないわけであるが、当裁判所は先に認定した、(一) 本件異常流が澪筋において特に強く澪筋から離れるに従つて弱くなつているという事実、(二) 澪筋異常流の発生しやすい地形上の要因があるということ、(三) 前顕甲第三九証の二により認められる北端標示竿外において背の立たない地点から自力で歩いて脱出して来た女生徒がいるという事実並びに(四) 後記認定のとおり入水当時既に女子水泳場内に北流が存していたことを一部の男生徒、および教員が気づいていたという事実、(五) その他先に認定した本件事故発生に処るまでの女生徒の入水状況等から考えれば、当時南方海上に発生していた一三号台風その他何らかの要因と結びついて極めて強い潮流が生徒の入水以前から澪筋において発生し、その影響により女子水泳場一帯に北流が生じていたのであり、これが本件異常流の実態であり、その速度は女子水泳場内においては秒速五〇センチをこえるという速さのものでは決してなく、女子水泳場内で背の立つ地点にいた女生従を押し流し溺れさせる程の北流ではなかつたという認定がもつとも真相に合致していると考える。
本件異常流の実態が右のとおりであるとすれば本件事故はこの澪筋の深みと澪筋に発生していた右異常流(その影響は既に女子水泳場に及んでいた。)について若し橋北中学校教職員が生従の入水に先立ち調査し、これに対する警戒を怠らなければこれを未然に防止し得たものであることは明らかであり、本件事故は決して不可抗力ではないと考える。そして右学校教職員の注意義務のけたいは津市教育委員会の指導助言上の注意義務のけたいに連なるものであると考える。以下この点について詳述する。
六(本件事故につき橋北中学校教職員ないし津市教育委員会の注意義務けたいの存否)
(一) 本件事故当日は先に認定したとおり水泳場の南北の幅員を一一〇米に拡げたため澪から女子水泳場北側境界線までは最短距離にして二〇米となつたのであり、これに加えてその前日には南流があつて女生徒二、三〇名がこの南流のため男子水泳場に逸脱したことは前顕甲第三二号証、第三四ないし第三七号証の各二、第四〇号証により認められ、また本件事故当日生徒の入水前に北流が女子水泳場に流れていたことを教員訴外矢部博が男子水泳部員から告げられ知悉していたことに前顕甲第六号証の一、二、第三三号証の四により認められる。
従つてかかる場合学校長ないし全教員に女生徒をテスト練習のため入水させようとするにあたつては、前日南流により女生徒二、三〇名が南側男子水泳場に逸脱したと反対に北え女生徒が流され、近接している澪筋において溺れるというような不測の事故を防止するべく、先づ教職員が入水し、この北流の状態を調べ、ついで澪筋の水深ないし潮流を調べ、生徒の生命に危険がないようにできるだけ澪筋から離れたところに水泳場を設定すべきであり、また女生徒を入水させるにあたつては女生徒に対し澪ないし北流についての危険性について予め十分警告し、且つ不測の事故に備え直ちに救助ができるよう女生徒を適宜区分(一斉に二〇〇名も入水させることなく例えば五〇名宛に区分)し順次入水させ、教職員のうち水泳のできる男子教員数名を女生徒の北側境界線に配置し、境界線から生徒が逸脱することのないよう監視を厳重にするなどして事故の発生を未然に防止すべき注意義務が存するものというべく、また、この場合、右注意義務は校長以下全教員に存することはいうまでもない。水泳訓練に全校生徒の行なう合同授業と変りはないから右注意義務が校長ないし教務主任、体育主任にのみ存し、他の教職員に存しないとするいわれはない。しかるに本件において中学校職員が右注意義務を尽したと認めるべき資料は何ら存しない。
却つて<証拠>によれば前記のとおり体育主任訴外柴田哲雄が事故当日テストを行なうことを計画し、当日朝の職員会議でこれを定め、先発した訴外柴田が男子水泳部員に指示して水泳場を設定したが、その際一部の男子水泳部員から北流のあることを告げられた訴外矢部博は、大した流れではないと安易に考え、これを訴外柴田に報告せず、訴外柴田ら教職員はテストの準備に熱中して別段澪筋の水位潮流について調べることもせず、生徒に対してはテストの方法について話をしたのであり、訴外矢部博において北流のあることを女生徒に告げたがそれも十分徹底しないまま、全生徒を入水せしめたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。
また澪筋について全教職員がその正確な地点、水位についての知識を有していなかつたことは、前記のとおり事故当日女子水泳場を澪筋に近く拡げたという一事だけからも容易に窺知できるし、更に遡つて考えれば、水泳訓練の三日目から男女水泳場を入れ替えて澪の存する北側を女子水泳場に定めたということ、ないし、前顕甲第五号証の二により認められる女子水泳場において入水前の並び方を澪筋に近い北側から低学年の泳げない女生徒を位置させ、それから順次配列し、一番南側に高学年の泳げる女生徒を位置させていたという事実によつても明らかであろう。
また事故当日澪筋に近い北側境界線から女生徒が逸脱しないように水泳能力のある男子教職員ないし男子水泳部員を右境界線上に配置し危険の防止に努めた形跡は全く存しない。
かくて約二〇〇余名の女生徒は澪ないし北流につき全く無警戒のまま一斉に入水し、内約一〇〇名が標示竿が二本しかない幅員五〇米の女子水泳場東側境界線上に散開し、折からの北流に乗り泳ぎ易いままに北に向つて進み(この場合水泳能力の殆んどない女生徒は顔を水面につけてめくら泳ぎをするのが大部分であつたろう。)その内約五、六〇名の者が北端標示竿から逸脱し、澪筋に近ずくにつれて澪筋に発生していた急潮と深みのため身体の自由を失い溺れ、教職員の救助も及ばず遂に三六名の女生徒が溺死したのである。
従つて本件事故は決して不可抗力な事故ではなく、教職員が前記注意義務(再説すれば事故当日の水泳場設定にあたり附近の海底の地形潮流を調査し、安全性を確かめるべき注意義務、生徒を入水させるに当り本件澪ないし異常流につき生徒に警告を与えるべき注意義務ないし澪筋に生徒が落ち込まないよう標示竿からの生徒の逸脱を防止するため厳重に監視すべき注意義務)を果していれば事前にこれを防止し得たものというべく、本件事故はこれら教職員の右注意義務けたいに帰因するというべきである。
(二) 津市教育委員会は津市立中学校の行なう水泳訓練については命令する権限はないけれども、これを放置してよい道理はなく、中学校の水泳訓練計画を審査し、その実施状況を視察し、これに適切な指導助言を与え、且つ必要な予算措置を講ずるべき注意義務が存することは先に述べたとおりである。
ところで先に述べたとおり津市教育委員会は教育長名を以つて七月一二日付通牒を全市立中小学校長宛に発しており、右通牒はそれ自体としてみれば適切な指導と言えるが、いたずらに抽象的に危険防止を力説するだけでは足りないのであつて、本件橋北中学校について言えば市教育委員会は少なくとも次の二点について指導し且つ予算を計上すべきであつたと考える。
その一は本件水泳場の設定場所が澪筋に近接しているというところからして、澪についての危険性を強調し、これにつき橋北中学に対し適切な指導助言をなすべきであつたと考える。例えば水泳場は澪筋からできるだけ遠くに設定するよう、女生徒は澪筋と反対側(南側)の水泳場において泳がすよう。澪筋に面する北側境界線の監視を厳重にするよう指導助言すべきであつた。
ところが<証拠>によれば、教育長訴外西田は各学校の水泳場選定については最も安全な場所を選ぶよう指示しただけであり、右訴外西田および教育課長訴外伊藤は指導主事訴外樋田から本件水泳場の近くに澪が存することを告げられ知悉していたのに、右西田らは澪があつても少し離れたところなら安全だと軽信し、訴外伊藤が現地視察に赴いたとき(水泳訓練開始の七月一八日ごろ)橋北中学の男生徒が北側境界線から逸脱しているのをみながら別段澪についての注意を与えなかつたこと、以上事実が認められ、他に右認定を動かすに足りる証拠は存しない。
もつとも前顕<証拠>によれば、水泳訓練の始まる以前において開かれた体育主任会議において指導主事から各学校の体育主任に澪についての説明があつたことが認められるけれども、右甲号証によれば、右証明は津海岸に澪があるといつた一般的な説明であつて、本件水泳場に近接して存する澪の規模、水深、幅員等について具体的に指摘したものではなかつたことが認められるから指導主事の右証明の事実は右認定をくつがえすに足りないわけである。
しかして教育委員会はその指示に基いて特別教育活動として行なう公立中小学校の水泳訓練について危険の発生の予測される場所(澪筋)に近接して水泳場が設定されようという場合においては、その危険なことを注意し、当該学校に対し場所の変更ないしその場所で水泳訓練を行なう場合の危険防止の方策を具体的に指導助言するべき注意義務が存するものというべきであり、(先に認定した雲出小学校に対し水泳場所の変更を指導したのはその例である。)右注意義務を怠つた市教育委員会の教育長指導主事、教育課長およびこれらを指揮監督すべき各教育委員にも本件事故に対する過失責任を免れないと考える。
もし教育委員会のなす指導助言につきこれらの者が過失責任を負わないとすれば、市教委の指導助言は何らの責任を伴なわない指導助言となり、かくては、地方公共団体における最高の教育行政機関としての職能は全うし得ないであろう。
附言すれば、元来教委法が教育委員会の各所管学校教職員に対する教育行政につき上下指揮監督命令の関係を排し指導助言制度を採用したのは教育作用の本質にかんがみての措置であつて、決して当事者の勝手気尽を許し教育行政を散漫ならしめようとの意図に基くものではないと考える。
従つて教育委員会の行なう指導助言に注意義務違背があれば前記の者がその過失の責を負うべきであろう。
その二は、市教育委員会は監視船についての予算措置を講ずべきであつたということである。
前顕甲第一号証の二によれば、文部省発行の水泳指導の手引には監視船を常備することとの注意事項が記載されていることが認められ、先に認定したとおり前記教育長の発した七月一二日付通牒には各学校は右水泳指導の手引を参照することと記しているのであつて、教育委員会は正課として行なう水泳訓練については不測の事故に備えて必ず少なくとも一隻の監視船を各学校毎に備えるよう予算措置を講ずべきであつたと考える。
プールの中での訓練ではなく、海岸で行なう水泳訓練においてはどのような突発的事故が起るかは予測を許さないのみならず、いかに遠浅の海岸とは言え全校生徒参加を原則とする本件水泳訓練には水泳能力の全くない、もしくは弱い女生徒も多数参加するのであるし、水泳場の設定の仕方によつては本件事故当日の橋北中学校のように標示竿の地点の水深が女生徒の胸の辺の場合もあるのであり、加えて標示竿から逸脱する生徒のあることも考え併せると万一の事態に備えて一隻の監視船の用意は不可欠と考える。
そして当時一隻の船の用意があり、常時境界線附近に待機させていたならば本件事故の発生を瞬時に且つ正確に把握できた筈であり、また救助も敏速に行なわれ溺死事故も相当防ぎ得たであろうことは明らかである。(本件において中学校教職員はいずれも溺れた者は四、五名ないし一四、五名と考えまさか三六名の溺死者がいるとは想像だにしていなかつたことは前顕甲第六号証の二により認められ、また本件事故発生後救助船が来たのは二、三〇分経過した後であり、溺死者は既に澪の海底に沈んでいたことは成立に争のない乙第三号証前顕甲第三七号証の一、証人伊藤勇の証言により認められるのであつて、これら諸事実は瞬時に且つ正確に異常事態の発生を知り、これに対し敏速な救助活動が行なわれなかつたことを証するものと考える。)
ところが教育委員会は前記文部省の方針にもかかわらず浅瀬で行なう水泳訓練であるから溺死事故は起る筈はないと安易に考え橋北中学からその予算請求がないままにこの予算措置を講じなかつたのである。
この場合予算請求をしなかつた学校当局よりも予算措置を全く講じなかつた教育委員会側にその過失の責は帰せられるべきである。(前顕甲第一号証の二、第二号証によれば、橋北中学は市教委の方針が監視船不要の方針であつたため請求しても却下されるであろうとの見透しでその請求をしなかつたこと、現に訴外南郊中学校は、その請求をしたが却下されたことが認められる。)
そして津市全公立中小学校二二校に監視船を一隻ずつ備えることは予算上難点があるとしても澪筋に近い本件文化村海岸で水泳訓練を行つた三校に対し少くとも一隻の監視船を常備する費用はそれ程多額に上るとは考えられないから他に特段の主張立証のない本件においては澪筋の危険性についての指導助言と監視船の予算措置を講じなかつた点において津市教育委員会の前記各職員は過失の責を免れないと考える。(但し監視船の予算措置については各教育委員会と教育長がその責を主として負うべきであろう。)
七(本件につき国家賠償法の適用の有無)
本件事故は前示認定のとおり津市立橋北中学校が特別教育活動として行つた水泳訓練の際生じたものであり、右事故につき橋北中学校の校長以下全教員及び右中学校に対し指導助言を行う立場にある津市教育委員会の各教育委員、教育長、指導主事、教育課長に過失が存するものとすれば、これらの者の過失は当然に国家賠償法第一条にいう公共団体の公権力の行使にあたる公務員の過失に該当すると考える。津市立中学校の校長及び教員は津市の地方公務員であり、教育委員は被告が主張するとおり一名は津市市会議員の中から議会において選出され、他の四名は、津市の住民から選挙によつて選出されるのではあるが、右各教育委員は津市の一機関である教育委員会を構成するものである以上制度上公務員たる身分はないとしても同法の適用上からはこれを一種の公務員と解すべきである。教育長、指導主事教育課長が津市の地方公務員であることは当然であろう。
そして同法第一条にいう公権力の行使とは狭義の国又は地方公共団体がその権限に基き優越的な意思の発動として行う権力作用にかぎらず、国又は地方公共団体の行為のうち右に述べた権力作用以外の作用すなわち非権力的作用(但し国又は地方公共団体の純然たる私経済作用と同法第二条に規定する公の営造物の設置管理作用を除く)も包含すると解するのが相当である。
従つて同法第一条の適用についてはいたずらに公権力なる文言に拘泥することは相当でなく、本件のような公立学校の生徒に対する正課実施に際する注意義務違背についてもまた同条の適用があると解すべきであり、これと異る被告の主張は採用の限りではない。
従つて原告のその余の主張について判断するまでもなく被告は同法第一条により本件事故により原告らの被つた損害を賠償する義務がある。
八(本件事故により原告らの被つた損害)
原告らが各被害者の父母兄姉であり、その続柄は原告ら主張のとおりであることは前記のとおりであり、春秋に富む若き愛児を本件事故により失つたことにより原告らの受けた精神的苦痛は甚大であることは察するに難くないから、原告らの受けた右精神的打撃に対する慰藉料としては原告ら各自につき各一〇万円を下らないと考える。
つぎに事故当時における女子の平均余命ないし被害者の死亡当時の平均余命が原告主張のとおりであることは弁論の全趣旨に徴し、当事者間に争がない。
ところで被害者一人当りの過失利益は稼働期間の始期終期、平均収入額、控除すべき平均生活費をどのように計算するとしても原告ら主張の被害者一人当り二〇万円ないし四〇万円((原告らは逸失利益として被害者一人につき一名の原告のときは四〇万円、二名の原告のときは三〇万円、三名の原告のときは二〇万円を請求している計算(但し被害者山尾末子の場合は逸失利益二六万円余のうちその四分の三)となることはその主張自体から明らかである。))を下らないことは全く明白なことがらに属する。
このように逸失利益による損害の請求額が極めて少額でいかなる計算方法によつてもこの請求額を下らないことが明白なときは、具体的計算をすべし省略し、原告らの請求額をそのまま認容してもよいと考える。
けだし逸失利益の算定は結局は高度な蓋然性を求めるための一つの擬制に外ならないのであつて、いかなる計算方法によつても請求額を下らないことが一見明白な本件のような事案においてはこのような計算はこれを要しないと言つても過言ではなかろう。
してみると逸失利益は原告ら主張のとおりであり、原告らの相続分も原告ら主張のとおりとなるわけであるから被告は原告安達まさへ、同田中道憲、同木村富、同片桐しめ(いずれも被害者の父母で単独相続者)に対し各五〇万円(一〇万円の慰藉料と四〇万円の逸失利益の相続分の合計額)原告山尾宏、同英子、同鈴木廸子(いずれも被害者山尾末子の兄姉)同紀平米吉、同喜代、同岡シヅ(被害者岡千恵子の実父母および養母)に対し各一〇万円(慰藉料)と各二〇万円の三分の一(逸失利益の相続分)にあたる六六、六六六円(円未満切捨)の合計一六六、六六六円、その余の原告らに対し各二五万円(慰藉料一〇万円と逸失利益の相続分一五万円)及びこれに対する本訴状送達の翌日である昭和三一年三月八日からその支払のすむまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払義務があるから、被告に対し右義務の履行を求める原告らの本訴請求はすべて正当として認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。(山田義光 松本武 青山高一)
別紙 その一 (犠牲者および原告らの氏名)≪省略≫
別紙 その二 (現場見取図)≪省略≫